なぜ外国人モデル?

子供用品を買いに行くことがある。ベビーカーなど様々な商品を作っているメーカーにCOMBIやAPRICAといった有名な会社があるが、そのポスターや商品のパッケージから、最初は海外メーカーなのかと思っていたが、実は国内メーカー。何せそれらに写っているモデルがみんな外国人(殆ど白人系か?)の幼児、親子ばかりなので、てっきりそうなのかと思っていた。
いずれも海外進出をしている会社のようなので、確かにそういうのもアリなのかな〜とも思う。自動車や電機メーカーのCMなどにもその手のものは多いので、特別ではないのかもしれない。(もっとも最近は逆に親近感やファミリー感を出すために日本人を使っていることも多いとは思うが)
しかし、せっかく我が子、我が孫可愛さで買い物にやってくる客ばかりなのに、いきなり「おしゃれに見えるから?」「そっちの方が可愛く見えるから?」か、殆どの購入客層とは別人種の写真攻勢で店の雰囲気を飾り立てられるのには、ちょっと抵抗や不自然さを感じずにはいられない。
決して人種でどうこう言おうってわけではないのだが、どうもまだまだこういうところで見え隠れするこの国の持つ劣等感や自己否定的なものを感じ、複雑な気分になる。そうしたものが自分自身の中にもまだあることを、ふと気付かされたりするからでもある。

話は少し変わるが、日本人のスタイルが欧米人に近づいてきたのかな?と思う瞬間がある。
店先のマネキン人形だ。
20年近く前、初めてアメリカを旅行した時、マネキンかと思ったら人間だったり、人間かと思ったらマネキンだったり、さすがにまともにちゃんと見れば分かるのだが、横方向の視野角40°辺りで感じる気配にしばしば錯覚を覚えた。現実にマネキンに似た体系の人たちが辺りにいる環境下で目がそのようになったのだろうと思ったものだが、最近では同じような錯覚を日本ででもたまに感じることが出てきた。まあ、マネキン側も少しやり過ぎていたところから ちょっとずつ現実に近い方向へ変化してきているのかもしれないけど…余談。(K)

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足るを知る

「足るを知る」という老子の言葉があるが、最近何かにつけて、この言葉が頭をよぎる。
景気が悪くなった、モノが売れなくなった、仕事がなくなった 等々、今の状態を否定的に捉える声はよく耳にするが、では、様々な項目において、どのくらいの状態や量が丁度良いのかという、目標のレベルというものはきちんと議論されているのか?また示されているのか?というと、疑問である。

かつて、バブル崩壊が即不景気のような言い方をするのに違和感を感じたこともある。
バブルはバブル、平常ではない浮かれた、おかしな状態であった事を認める表現であるのに、崩壊後は平常を飛び越え即座に不景気に突入したかのような悲観が横行し、「なんだ、世の中結局バブル再来を願ってるのか?」と思わずにはいられなかった。

車が売れなくなった。確かに売れていた頃より落ちたのだろうが、では、一方でCO2排出量の削減や限りある資源の節約、交通事故の抑制も求められる中、世の中にどのくらいの自動車が存在すれば良しとすべきなのかという、もう少し高いレベルで検討された目標値はないのか?自動車産業関係者への十分な仕事、雇用、そして利益が確保できるだけの稼働率からでしか生産量、流通量の目標は立てられないのだろうか?現に、昨年のガソリン高騰、自動車不況で自家用車利用が減った(その分公共交通機関利用が増えたと思われる)ことにより、CO2排出量が若干減ったとの調べもある。これも大きな目標の一つだったはずだ。

私の携わる電機業界もしかり。例えばエアコンなども、仕事でなければ個人的に普及には大反対。夏場、各家の屋外で昼夜室外機がブンブンまわっている様子などを見ると、みんなでこぞって大気をどんどん暖めていく共同作業をしているかのように見えて、愚かにさえ思えてしまう。かと言って、我が家でもどうしても暑くて仕方がない日はエアコンをつけるが、電気代が云々というよりも、外気をヒートアップしているという罪悪感の方が先にくる。

携帯電話もさすがに行き渡って、大きな伸びが望めなくなっているようだが、不必要に買い替えを促進してまで作り続ける必要もないものだ。資源の無駄遣いはしたくない。

人工衛星。多くの国が次々と打ち上げるが、使用出来なくなったもの、その残骸などが地球のまわりには多く浮遊しているという。先日もアメリカとロシアの衛星が衝突した。計画の進む宇宙ステーションも今後の安全が危惧される。便利と安全のバランスが取れなくなってきている。

日本の人口もしかり。今後の減少が問題視されてもいるが、では何人くらいが適当だとされているのか?自然に対するダメージの事を考えれば、別にもっと少なくたって良いという考えもあると思うが、経済活動的に見ると、労働力が減ると対外競争力が落ちたり、高齢者など非労働者のウェイトの高まりが社会保障のしくみを行き詰まらせるといった問題が生じる。特に日本においては、外国人労働者の受け入れといった課題も踏まえながら、どこで折り合いを付けるのか、もっと議論されなければならない。決して頭数だけの問題ではない。

人間は欲深い。欲しいものを手に入れれば、また次に欲しいものが出てくる。
確かにその人間の貪欲さがあってこそ、人間の技術や知識がここまで発展してきたのだとは思う。
ただ、自然界や自分たちで造り出したシステムの中で許容出来たり、消化出来るうちはまだ良いが、さすがにその範囲を越え、歪みが出てきたと分かった事項については、ある程度の枠を設けて制限、ブレーキをかけるのも、また人間の成せる技であり、賢さだと思うのだ。
「自慰行為を覚えたサルは死ぬまでそれを続ける」という話がある。本当かどうかは知らないが、結局私たちもこの話を「やっぱりサルだ」と笑えるのか、同じことをするのか、そういうことになるのだろう。(k)

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誰を信じる?

2008年10月2日
最近、小学校によっては、登下校の際、胸の名札をひっくり返して歩くよう指導されているところもあるらしい。プライバシー保護や不審者対策の為らしい。
それに関連した話。ある日、通学路で下校時の見守り運動の為に立っていたご老人が、怪我で血を流している生徒を見つけ、生徒に名前を確認し、学校へ連絡してあげると、「ウチの学校にそのような生徒はおりません!」と、全く取り合わない対応だったらしい。その場に及んでも名札を見せたがらず、偽名まで使う生徒も生徒だが、明らかにおたくの生徒さんが怪我をしていますよ!と連絡をもらっているのに、不審者からの電話とでも思ったのか、全く次の確認作業に入ろうともしない学校側も学校側。 ご老人は呆れ、「わしゃ、あほらしくてやっとられん!」と。 ごもっともです。
ご老人は、子供の安全のためにと毎日のように旗を振って立っているのに、何年経っても子供の名前が全く分からないまま。たまに生徒から「ねえ、○○ちゃんはもう先に行った?」などと尋ねられても、どの子が○○ちゃんやら…?状態らしい。 本末転倒な話だ。

ウチの4歳の娘がカミさんに言ったらしい。
「ママは私より先に死なないでね」と。早すぎる気もするが、その気持ちは分からないでもない。
問題はもう一つのお願いごと。
「ママは私のこと殺さないでね」と。ここ最近のわが子殺し頻発のニュースが分かっているらしい。
事件やその報道が世の中、また子供に与える影響の大きさを改めて感じ、悲しい思いにさせられる。
もしかしたら、幼稚園じゃ友達同士で「○○ちゃんとこのママは大丈夫?」「ウチんちは大丈夫よ」「でも時々怒ると怖いから、分からないかもね」なんて会話しているんじゃないかと想像すらしてしまう。そのうち、そんな恐怖心から親の顔色をうかがいながら育つ子供もいるんじゃないかと、いや既にたくさんいるんじゃないかと思ってしまう。 

逆の話もある。危害を加えられることを恐れて子供に注意の出来ない大人。
我が子に対してなら、まだそうでもないだろうが、こと見知らぬ子供、若者に対してであれば、それはもう少数派ではなく、明らかに多数派だろう。と言うより、常識にさえなりつつあるのかもしれない。

子供との間ですら、お互いが信じられる相手かどうか「検証」「確認」し合わなければならない世の中になっていくのだろうか…そんな風にはしたくないですね (k)

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Who protects you?

2007年1月
ウチのマンションはJR線から比較的近いこともあり、窓を開けていれば電車の走る音が聞こえる。 走行音には慣れたものの、気になるのは踏み切り前に鳴らす警笛。 
運行規則により踏み切り前では必ず鳴らすことになっているのかもしれないが、実際に踏み切り遮断後無理に渡る人がいて、それに対して鳴らしていることも想像できる。 
また新幹線のホームでは、まさに電車が入ってくる最中、駅員がアナウンスで「黄色い線より内側へお下がり下さい ! 内側へお下がり下さい ! ! お下がり下さーい !!!」と、半ば怒り口調で注意を続けるのを何度となく聞いたこともある。 いつまでたってもアナウンスされる注意が自分に向けられたものだということに気づかない人がいる模様。 きっとこんな人に限って万一接触でも起こそうものなら、人一倍駅側に文句言うんだろう。
本人の不注意で事故が起きても、注意を十分促さなかった者(システム)や不注意者に対する注意が十分でなかった者の方が極端にバッシングされる、世の中そんな風になりつつあると感じる。
20年以上も前のことだろうか、「アメリカじゃ、濡れたペットを乾かそうと電子レンジ(オーブン?)に入れてペットが死んだら、そういう物は入れないように注意書きしていなかったメーカー側が裁判で負けるんだってさ」と子供ながらにもその稚拙さを笑ったものだが、今じゃ日本でも笑い話じゃないんでしょうかね? (K)

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車の品格

2007年1月
去年は「品格」という言葉がもてはやされた。
車を運転中にたまに思うことがある。
いわゆる高級車と言われる車が、ウィンカーも出さず縫うように無理やり追い越ししながら無謀運転している様を見ると、本当にその車がかわいそうに思えてくる。
「車の品格」がドライバーによって台無しになっていく瞬間。

メーカー、ディーラーが客を選べる時代・・・自動車業界ではちょっと現実的じゃないですかね。 (K)

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都会の人

都会から来た人間が、田舎の町やそこに住む人を「何も無い所だ」「遅れてる」「センスが無い」と馬鹿にするといったシチュエーションは昔も今も、また洋の東西を問わず、よくある話だろう。
私自身も学生で東京にいた頃、自分の郷里や他の町を訪れた際にそのように思ったり口にしたこともあった。
今でも不便な町へ行けば、やっぱり多少そんなふうに思う。
しかし考えてみれば、大都会のビル群や街の賑やかさ、便利さ、ファッショナブルさを自慢したところで、所詮一般の人々はそういう「できあいの器」の中で慣れ親しんで、うまく立ち回れてるだけにすぎない。 実際、「何も無い所では楽しむことが出来ない」と言うってことは、そういうことなのでしょう。
ビル群の合間やお洒落な通りを闊歩し、オープンカフェで足くんでお茶してみせたところで、スゴいと思えるのは先進的なそれらを想像して提案、提供した一握りの人たちだけなんじゃないの? と、思ってしまう。
むしろ、そうしたものに虚栄心や脅迫観念からまんまと乗っかって踊らされている姿の方が私の笑いには近い。 
が、今の世の中、意固地になり、そんなことを故意に遠ざけて生活しようったって無理でしょうけどね、坊さんか仙人にでもならなきゃ。

いわゆる「田舎」に暮らす人の中にも、そうした「お膳立てされた器」が無い為に、自分たちで人々を集めてイベントを開いたり、何かを作り出して人を楽しませたりするクリエイティブな人材はたくさんいる。 そんな人たちが本当にカッコイイと思えたりするのだ。   (K)

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声の大きい人

以前、と言っても学生の頃だろうか、「声の大きい人に悪い人はいない」という言葉をよく耳にした。
「声が大きいと嘘がつけないから」「はっきり物事を言えるから」といった理由らしい。
本当だろうか?
ただ、そのように言う人はまずその人自身の声が大きい。
だからこの説はいかがわしく感じるのだ。
声の小さい人たちが、こぞってそのように評するのなら、私は納得するんだけど・・・       (K)

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風化

戦後60年経ち、戦争の悲惨さ、愚かさ、平和のありがたさ(有り難さ)への意識が、日本国民の中から薄らぎつつあることは、多くの人が指摘し、また実際にそう感じている人も多いのではないかと思う。
東京で学生生活を送っていた頃、テレビで中継される広島発の題材と言えば、ほとんどが「原爆」「平和」絡みのことばかりで、「ダサイなあ。 もう少し他のネタ、新しい情報も発信してくれよ」と思ったものだった。
しかし今思うに、広島はやっぱりこの「ネタ」を発信し続けなければならないのだろう。
全国に8月6日、9日を知らない人、覚えていない人が増えている。
修学旅行では広島、長崎よりも、学生の要望やコストを優先して韓国やグアムなどに行ってしまう学校も増えている。
こんな時代だからこそ、広島や長崎が声を出し続けることが重要なのではないかと感じる今日この頃。

そんな私の住む広島でもこんなことが実際には起きている。
転勤で四国からやってきたばかりの人が、子供を連れて平和公園に行ってみたいので交通手段を地元出身の同僚(というより上司)に聞いていた。
その同僚、とりあえず行き方を説明した後で付け加えて言うことには、
「だけど原爆資料館は見ない方がいいかもよ。 あまり気持ちいいもんじゃないからね・・・」
一瞬我が耳を疑った。 遠隔地の人、若い年代の人が口にするならまだしも、広島の人間で50代にもかかろうかとする人がこのような発言をするとは、個人をとやかく言うよりも、いよいよこんな時代にさしかかって来たのかと、少々絶望にも近い思いで落胆した。
あと、20年もすれば第二次大戦の実体験を語れる人は殆どいなくなる。
どんなに書物や映像資料、遺品や跡地を残したとしても、史実の記憶や、人々の捉え方が風化してしまっていくことは止めることが出来ないのだろう。               (K)

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無意識

自分の置かれた環境や境遇が変わると、世の中の見え方が変わることがある。
独身時代や夫婦二人生活の頃にはあまり気にかけなかったが、いざカミさんが妊婦になったり子供が生まれてくると、急に周りの妊婦さんや子連れの家族が多くなったように感じる。
訪れる場所や参加する行事がそれなりに変化するからということもあるだろうが、それだけでもないだろう。
やはり気にかけてるから見えてくるのだと思う。
同じように、今目の前で起きていることも、気にかけていないが為に見落としてること、いっぱいあるんだろうな。  良いことも、悪いことも含めて。
気づかず損してることも結構あるのかもしれない。

それにしても、不思議なのが目につく子供の数。
「どこに行っても子供ばかりだなあ」とさえ思う場面もあるが、それでも子供の数は年々減ってきているというのだから感覚的ズレがある。  となると、20年、30年前はどれだけ町は子供であふれていたのかと思う。 
自分自身もその1人だったはずだが、記憶に遠い。                                           (K)

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座って!?

2006年4月某日
カミさんが同じマンションの仲間と集った時のことだそうな。
旦那に、トイレで小便をする時は壁が汚れるから座ってしてもらってる人という家庭が6件中3件。
もちろん(?)ウチはしてない派。
「結構奥さんの発言権強いんだ」と思うと同時に、「結構そんなことまで指示に従う旦那って多いんだ」と正直驚いた。 カミさんも同じように驚いてたくらいだから、まあウチはウチで問題なく事が運んでるんだろうけど・・・
当面そんな風にしようとも思わないし、仮にしてたとしたら、奥さんの意見でそうさせられてることを同じマンションの人に知られてるってのは、ちょっと恥ずかしいぞ、それは!

以前便座メーカーのアンケート結果で「3割の既婚男性が家庭では座って小便をしている」という記事を読んだことがあり、「ホントかよ〜」と疑ったもんだが、いやいや、以外とその比率はもっと高くなってきてるのかもしれないぞ!                                                 (K)

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